たんぽぽ
春がきた。
外に出ればぽかぽかお日様。こんな日は、ゆっくり日向ぼっこでもしていたい。
津田瑞穂は座っているすべり台の上でうーん、と一つ伸びをした。
平日の午後。まだ日は高く、頭上には大きく青空が広がっている。その青さに瑞穂は目を細め、深呼吸を一回。
河原の横にあるこの公園。春休みというのに、ここには今、瑞穂しかいない。
時折吹いてくる風が心地よく、瑞穂の長い髪を静かに揺らしていく。
余りの気持ちよさに、うとうととし始めたそのとき、ふと、甘い香りが彼女の鼻を掠めた。
よく知ったその香りに瑞穂は眉間に皺を寄せる。
「……何してんの?」
体勢そのままに、瑞穂は自分の背後に立つその人物へと声をかけた。が、返事はない。
暫くして、ズズッ…という音と共に「あ……」という小さな呟きが聞こえてきた。瑞穂はそれを確認すると、もう一度背後に立つ人物へと声をかけた。
「……で、何してんの。閨志」
緩慢な動作で振り返り見上げると、彼――日笠閨志はいつもの無表情のまま、これまたいつも通り手に持った『いちごみるく』の紙パックを見詰めていた。
「空になった」
「みたいね」
そう言って瑞穂がすべり台を滑り降り、スカートの砂を叩いていると、未だすべり台の上に立つ閨志が青空を仰ぎながら瑞穂の名前を呼んだ。
小さな小さな、呟きのようなソレに、けれども瑞穂は気付いて彼を振り仰ぐ。視線の先には、まるで猫のように気持ちよさそうに目を細める閨志の姿。
「どうかした?」
「いい天気」
「そうだね。すっごく気持ちいい」
「ひなたぼっこしたい」
空になった紙パックのストローを口にくわえ、眉間に皺を寄せる姿が視界に映る。その表情に苦笑をもらすと、瑞穂は彼に向かって手招きした。
それに気付いた閨志は彼女を一瞥したあと、ストローをくわえたままゆっくりと階段を下りてきた。
「ひなたぼっこ、すればいいじゃない」
目の前まで来た閨志を僅かに見上げながら言うと、彼は一旦視線を逸らして目を瞑り、小さく息を吐き出した。
珍しく発言を躊躇っている様子の彼に首を傾げて見詰めていると、目を開いた彼の視線とぶつかった。
一瞬の沈黙。
そのまま見詰めていると、彼はようやくその重い口を開いた。
と、そのとき。「あ」と、瑞穂が小さく声を上げて閨志の横をすり抜けた。
そこには小さなたんぽぽ。
しゃがみこんでそれを見ている瑞穂の横へ、閨志も歩み寄る。
「たんぽぽ?」
「そ。かわいいよね」
「うん」
「昔、よく閨志と一緒に公園に来て、こうやってたんぽぽ見てなかったっけ?」
たんぽぽを見詰めながら懐かしそうに話す瑞穂の横に、閨志も同じようにしゃがんで、持っていた『いちごみるく』の紙パックを置いた。
「うん。見てた」
「閨志ってば、たんぽぽ見つけたらそのままずーっと何十分でもそうしてるんだもん」
「……だって、気持ちよさそうだし」
「どんな理由よ、ソレ」
「あったかそうでいいな、とか」
「まぁ、閨志らしいっちゃらしいけどね」
そう言って苦笑しながら、指でたんぽぽを揺らす。
「……瑞穂はよくたんぽぽ摘んでた」
「そうそう、それで一度、閨志を怒らせちゃったんだよね」
「だって、あんなに気持ちよさそうにしてるのに」
「うん。で、めったに怒らない閨志が数日間口も利いてくれなくなっちゃって……あのときは相当へこんだよ」
「……ごめん」
「謝んなくていいし。あれは私が悪かったもん」
「でも、瑞穂はおれに見せようとしてくれただけだったのに」
「そうだけど……でも、かわいそうだもんね。たんぽぽだってちゃんと生きてるのに摘んじゃうなんて。閨志を怒らせちゃってから、そう思うようになった」
「うん」
「だから、ありがとね」
「……うん」
閨志に笑顔を向けると彼は小さく頷いて、先程横に置いた紙パックを再び手に持ち、ゆっくりと立ち上がった。
そして猫のように伸びをすると、その視線を瑞穂へと向けた。
ふぅ、と一呼吸。
この気持ちよさに、別れを告げた。
「……理事長が瑞穂を呼んでる」
ゆっくりと紡がれたその言葉に、目を瞬かせる瑞穂。
「おじいちゃんが?」
「うん」
頷く彼を横目に、瑞穂は盛大にため息を吐いて見せ、前髪をくしゃっとかきあげる。
「まった私に面倒事押し付ける気ね」
「……今回は、おれも一緒にって」
「……閨志も?」
無言のまま頷く閨志に、瑞穂は眉根を寄せると額に手を当てた。
「……何か、未だかつてなくヤな予感がするんだけど」
瑞穂はそう言ってもう一度盛大なため息を吐くと、ゆっくりと立ち上がり歩き出した。その後を一歩遅れて閨志が追う。
向かうのは、自分たちの学校。
「それじゃ、悪いけど付き合ってもらうわ。おじいちゃんのわがままに」
「慣れてるから、いい」
「いちごみるく一本、でいい?」
「……二本」
「……了解」
二人の去った公園では、暖かな陽射しを浴びながら、一輪のたんぽぽが気持ちよさそうにゆらゆらと揺れていた――