さくら
はらりはらりと散る桜は、美しく儚く、人々の想いを乗せて舞う――
津田瑞穂はその日、自分の通う学園の中庭で、どこか切なそうに空を見上げる一人の男子生徒を見かけた。
まだ僅かに寒さの残る三月の初め。
切なげな中にもどこか温かさと柔らかさを含んだ彼の表情に、瑞穂は一瞬目を奪われた。
彼の顔は見たことがある。確か、以前同じ委員会で仕事をしたことがある三年生。自分よりも二つも年上の、余り話したことも無い彼に自分が声をかける理由もないので、
瑞穂は静かにその場を後にした。
数日後、再び中庭を歩いていた瑞穂は、やはり先日と同じように空を見上げる彼を見かけた。
明日は卒業式。何か思うところがあるのだろうと、暫くその様子を眺めていた瑞穂だったが、ふと、視線を下ろした彼と目が合ってしまった。
視線を逸らすのも気まずいと思い、瑞穂は彼に近づき声をかけた。
「先輩、そんなところで何されてるんですか?」
彼はほんの僅かに目を見開いたあと、ゆっくりと目を閉じて口元に小さな笑みを浮かべた。
「人を、待ってるんだ」
まるで大切な宝物のことを思い出しているかのようなその表情。そして囁くその声色は、あのときの表情と同じでどこか温かく柔らかいものだった。
それほどまでに大切そうに思い浮かべる相手など、決まっているだろう。
それはその人にとっての特別な存在。
「人って……彼女さんですか?」
問えば彼は小さく頷いた。
「この間もここで待ってましたよね?」
「見られてたんだ」
「すみません」
「謝らなくてもいいよ」
彼はくすりと笑うと、うーんと伸びをして、芝生に寝転がった。
「約束したんだ。また一緒に桜を見ようって」
「桜、ですか?」
桜が咲くにはまだ早い。
瑞穂が静かに彼の隣に腰を下ろせば、彼は一瞬だけ彼女に視線を移し、すぐにまた空を見つめた。
「待ち合わせはいつもここだったんだ。オレがここで寝てると、必ずあいつが起こしに来た……『桜を見に行こう』って」
昔を懐かしむようなその表情。
「オレ、明日で卒業だから。あいつとここで待ち合わせられるのって、もう今日と明日しかないんだ」
だから待ってる、と微笑んだ彼。
気付いてしまった。理由はわからないが、彼はもう、その『彼女』と桜を見ることが簡単にはできないのだということに。
けれど彼は待っている。ここで『彼女』と再び会い、共に桜を見ることを――約束を果たせることを願っている。
会わせてあげたい、そう思った。こんなにも想い続ける『彼女』に会わせてあげたいと。
けれど瑞穂にはしてあげられることなど何も無い。今、こんな風に初めて言葉を交わした瑞穂にできることなど有りはしなかった。
だから、せめてただ一言。
「来てくれるといいですね、彼女さん」
「ああ」
彼は瑞穂に嬉しそうな笑顔を向けると、再び空を仰いだ。
青く青く澄んだ、美しい青空を。
* * *
日笠閨志はその日、自分の通う学園の裏手の丘で、どこか切なそうに空を見上げる一人の女子生徒を見かけた。
まだ桜には早い三月の初め。
あと一ヶ月ほどすれば、ここは満開の桜に埋め尽くされる。桃源郷というものが存在するなら、きっとこういう場所を言うのだろう。
しかし今はまだ、見上げる枝々には花はなく、広い青空が見渡せる。
切なげな表情で空を見つめ続ける彼女。
閨志はそんな彼女の姿を視界に入れつつも、気付かないふりをしてその場に寝転がった。そして、大好きな『いちごみるく』を口に含むと、そのまま眠りについた。
数日後、再び丘を訪れた閨志は、やはり先日と同じように空を見上げる彼女を見かけた。
こんな季節だ。何か思うところがあるのだろうと、ぼんやりとその様子を眺めていた閨志だったが、ふと、視線を下ろした彼女と目が合ってしまった。
すると彼女は驚いたように目を見開き、その後やんわりと微笑んだ。
閨志は無表情にその一連の動きを見ていたが、やがてゆっくりと彼女に近づいていった。
いちごみるくを一啜り。
「……何してるの?」
彼女は風に靡く長い髪を押さえながらゆっくりと目を閉じると、口元に小さな笑みを浮かべた。
「人を待ってるんです」
その表情はとても穏やかで温かい。
大切なのだろう、そう思った。
再びいちごみるくを口に運ぶ閨志。その瞳を静かに閉じた。
「ここで一緒に桜を見る約束をしたんです。明日が卒業式だから、その前に約束を果たしたくて……」
目を伏せて、呟くように言葉を紡ぐ彼女。
「……約束」
彼女の言葉を繰り返すと、閨志はその瞳を開いた。
二人の視線がぶつかる。
一瞬の沈黙の後、彼女はふっと視線を外すと、自嘲気味に呟いた。
「でもまだ、桜が咲くには早かったな……」
願いを叶えてあげたい、そう思った。こんなにも切なげに呟く彼女の願いを。
偶然にもここでこうやって出会った閨志。そしてきっとそれは、彼にしか叶えることができない願い。
閨志は腰を僅かに屈め、悲しそうに笑顔を浮かべる彼女にそっと視線を合わせた。
「……見れる」
「え?」
小首を傾げる彼女に、もう一度。
「きっと、一緒に見れる」
彼女は目を丸くしたかと思うとすぐに、閨志に柔らかな笑顔を向けた。
そのとき、二人の間を暖かな風が吹き抜け、周りの木々を静かに揺らしていった。
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