さくら


 津田学園高等学部の卒業式は、快晴の爽やかな天候の中執り行われた。
 卒業式の日にふさわしい清々しい青空の下、卒業生たちは先生や友達、後輩たちと写真を撮ったり言葉を交わしながら別れを惜しんでいる。
 そんな中、瑞穂と閨志はそれぞれの目的の場所へと向かっていた。瑞穂は学園の中庭へ、閨志は学園の裏の丘へ。
 昨日話を聞いた二人の学生を再び会わせてあげるために。


 瑞穂が中庭に着くと、やはり彼はそこにいた。芝生の上に寝転んで、ぼんやりと天を仰いでいる。
 頭の横には卒業証書。
 瑞穂はそんな彼の姿を確認すると、腕の中で丸くなっている藤吉へと目配せした。すると藤吉は、瑞穂の腕の中をするりと抜け出し、芝生に寝転がる彼の許へと駆け出した。
 それを少しの間を空けてから瑞穂が追う。そして彼に向け、叫んだ。
 「先輩!」
 彼がぼんやりとした視線を瑞穂へと向ける、と同時に、藤吉がその顔目掛けてダイブした。
 「にゃあっ」
 「うわっ!」
 見事に衝突。
 しかし藤吉は持ち前の身軽さで、すぐさま彼を越えて駆けていく。
 「先輩! その猫捕まえてください!」
 再び瑞穂が叫べば、彼は遠ざかっていく藤吉と瑞穂とを交互に見て、やがて慌てて立ち上がった。
 「あの猫、キミの猫?」
 「はい。目を離した隙に逃げちゃって」
 追いついた瑞穂と共に走り出す。
 しかし、相手は身軽な猫。そう簡単に追いつけるはずもない。
 藤吉は二人の様子などお構い無しに颯爽と駆けていく。そんな藤吉の姿を遠くに捉えながら、二人は必死に走った。 中庭を抜け、校舎の周りをぐるりと回り、必死に必死に走って、そしてやがてたどり着いたそこは、余り人が踏み入ることのない学園の裏の小さな丘だった。 まだ桜は咲いていないが、たくさんの桜の木に包まれているその丘。その本数の多さに圧倒される。
 「ここは……」
 呆然と呟く彼。今まで走ってきた疲れなど忘れて、その場に立ち尽くしていた。
 その隣に、ゆっくりと瑞穂が並ぶ。
 「この場所、ですよね」
 「……え?」
 戸惑いを含んだ瞳で瑞穂を見つめる彼。しかし瑞穂はそれを無視してその場にしゃがみこんだ。そして先程まで二人が追っていたはずの藤吉へ向けて手を伸ばした。
 「藤吉」
 「にゃあ」
 呼ばれた藤吉は、ぴくりと耳を動かしたあと、こちらの方へと駆け戻り瑞穂の手に擦り寄った。
 瑞穂はその黒くしなやかな体を抱き上げながら、お疲れさま、と小さく呟く。
 「えっと……?」
 よく状況が呑み込めていない彼に瑞穂は向き直り、小さく微笑む。
 「すみません。ちょっと嘘ついちゃいました」
 「嘘?」
 「このコ、藤吉っていって私の友達の猫なんです」
 「?」
 「それで、藤吉にお願いしてここまで走ってきてもらったんです。このコ、すごく頭がいいんですよ。お願いしたことはちゃんとしてくれるんです」
 ねー、と頭を撫でれば、得意そうな表情を彼へと向ける藤吉。
 「えっと、その猫が頭がいいっていうのはわかったけど……何のために?」
 訝しげに訊ねてくる彼に、瑞穂は再び優しい笑顔浮かべ、自分の立つ後ろを指し示した。丘の一番上。多分きっと一番見晴らしがいいだろうその場所を。
 彼はその方向へ視線を移し、目を見開いた。
 「先輩が待っていたのは、あの人ですよね?」
 視線の先。そこには二人の学生が立っていた。一人は黒いカーディガンを羽織った黒髪の男子生徒。そしてもう一人は、栗色の長い髪を風に靡かせた色白の女子生徒――
 見間違えるはずのない、自分がずっと会いたいと願っていたその姿を見つけた瞬間、彼は弾かれたように駆けだした。

 「柚那!!」

 「かずま!!」

 同時。答えるように彼女も丘を駆け下りる。
 そして二人は、互いにその体を抱きしめ合った。
 しっかりと、その存在を確かめるように。
 「本当に、本当に柚那だ……」
 「かずま、かずま、ごめんね、ごめんね」
 涙を零しながら必死に彼にしがみつく彼女。  そんな彼女の髪を優しく撫でながら、彼は小さく首を振り囁く。
 「いいんだ、柚那。謝らなくていいんだ」
 「でも、桜を見ようって約束したのに……」
 「いいんだよ。柚那と今こうやって会えただけで、オレは嬉しい」
 ぎゅっ、と再び力強く彼女を抱きしめる。
 彼女もそれに答えるよう、彼の背に回すか細い腕に力を込めた。
 強く、強く……
 そのとき、二人の間を暖かな風が吹き抜けた。
 「わぁっ!」
 二人の耳に、驚きの声が届いた。
 その声は遠く離れた場所に立っていた瑞穂のもの。
 現実に引き戻された二人は、何事だろうと顔を上げ、その瞳を大きく見開くこととなった。
 「さく……ら?」
 「どうして……」
 気付けば丘は桜色に包まれていた。先程までつぼみすら出ていなかったはずの木々が、満開の花を咲かせている。
 そんな不思議な光景。けれどもう、ちょっとやそっとでは驚かない。
 彼女は丘の上へと駆け上がり、舞い散る花びらに腕を広げる。その姿に苦笑を浮かべながら、ゆっくりと丘を上っていく彼。
 くるくると桜の中を舞う彼女の体を彼はそっと後ろから抱きしめ、二人静かに、満開の桜を眺めていた。

 「かずま、桜きれいだね」

 「ああ。すごくきれいだ」

 ようやく二人は約束を果たすことができた。
 この丘で二人一緒に桜を見るという、大切な約束を――



 瑞穂と閨志は、静かに丘をあとにした。
 優しく幸せそうな表情を浮かべる彼らの姿に、二人の心はとても温かくなっていた。
 「あの二人、会えてよかったね」
 「うん。人違いじゃなくてよかった」
 「……確かに。けど、人違いの確率はかなり低いと思ったし」
 「うん。おれも瑞穂の話を聞いて、きっと相手はその人だろうと思った」
 「あんなに想ってて、待ってて、会えない理由なんて一つしか浮かばなかった」
 瑞穂は、うーん、と伸びをして突き抜けるような青空を見上げる。そして溜息を一つ。
 「もう二度と、どうやっても会うことができない場所に、彼女は逝ってしまったんだって」
 同じように、閨志も空を見上げる。
 「……彼女はどうしても約束を果たしたかった。だからあの場所にいたんだ」
 「あの丘に行ったのが閨志でよかったね。じゃないと、誰も彼女に気づくことはなかったんだもん」
 「中庭に行ったのが瑞穂でよかった。おれだったら、話を聞くことなんてなかった」
 二人はお互いに顔を見合わせ、小さく微笑んだ。
 「あれ、でも、閨志!」
 「?」
 ハッとしたように瑞穂は顔を上げた。
 突然の慌てたような声に首を傾げる閨志。そんな彼の袖を瑞穂は引っ張る。
 「閨志、彼女のそば離れちゃって大丈夫だったの!?」
 「大丈夫」
 何だそんなことか、といった風に答え、足元の藤吉を抱き上げた。
 「あの二人の場合、一度視せただけで大丈夫そうだった。それだけ想いが強かったんだと思う」
 「そっか」
 チリン、と藤吉の首元の鈴が鳴る。
 満足そうに頷いていた瑞穂だったが、また突然、あっ! と大声を上げたかと思うと、窺うように閨志の顔を覗き込んだ。
 そして恐る恐るといった風に、問い掛ける。
 「そういえば、あの桜って……まさかとは思うけど閨志のチカラ?」
 「……いくらなんでもそんなことはできない。あれは、あの丘のチカラ」
 その言葉を聞いて、そっかそっか、と頷く瑞穂。きっと桜たちも、あの二人の約束を――願いを叶えてあげたいと思っていたのだろう。
 あんなに強くお互いを想い合っていた二人。その二人の幸せそうな姿を、あの丘もきっと望んでいた。
 「あんな風に想い合えるって、うらやましいね」
 「……ズズッ」
 「?」
 ほんわりとした気持ちで呟いた瑞穂。しかし隣から返ってきたのは何かを啜るような音。 訝しげにそちらを向けば、どこに隠し持っていたのだろう、閨志はピンク色をしたいちごみるくの紙パックを手に持ち、それを口へと運んでいた。
 その姿に思わず脱力する。
 「閨志……もう少し空気読んでよ」
 「久しぶりに人に『視せた』から疲れた。糖分補給」
 「あー、そうだったね。うん。お疲れさま」
 「にゃあ」
 ぽんっ、と彼の肩を叩き、その腕の中に納まっていた藤吉を受け取ろうとすれば、藤吉はその腕をするりと抜けて地面へと降り立った。 そして、二人を残してすたすたと先を歩いていってしまった。
 「え、藤吉?」
 呼びかけると、彼は立ち止まり一度二人を振り向いたが、すぐにまた前を向いて行ってしまった。
 「行っちゃった」
 「猫だから」
 「……気まぐれ、ってこと?」
 「うん」

 風に乗って、甘い香りが流れてくる。
 それはいつも瑞穂の周りでする人工の苺の香りではなく、自然の優しい香り。

 「もうすぐ春だね」
 「ひなたぼっこしたい」
 「もう少し暖かくなったら、一緒にしよっか」
 「約束?」
 「うん。約束」

 二人は幼い子供のよう小指と小指を絡めると、小さく微笑みあった。
 それは、二人にとっての大切な約束――